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Vol.55
冬至の日は1年の終わりの日?

 

 


冬至の日は1年の終わりの日?

 
 

今年の12月21日は冬至です。1年で最も昼間の時間が身近い日です。冬至の翌日からは陽の出る時間が少しずつ長くなり夏至(6月21日)を境にして再び来年12月22日の冬至の日を迎えます。  

この日、東京・早稲田にある“穴八幡宮”には「一陽来復」(イチヨウライフク)のお札を買い求める人で賑わいます。「一陽来復」の「復」は「福」ではなく「復」の文字であるのは復活の意味があるからです。
  古くから中国に伝わる「易経」のなかに“陽の気”と“陰の気”の現象について書かれています。
“陽の気=良い運気”とし“陰の気=悪い気”と考え、それが繰り返されているとあります。

 夏至の日をピークにして秋〜冬〜春〜夏と季節が繰り返すように“冬至の日=一陽来復”として、逆境もこの日を境にして、太陽パワーが増す陽の気がふたたび復活するというのです。



 

●晴れ空はやがて崩れ…雨降りは必ず晴れる

 
 

「易経」の中に“亢龍悔いあり”という言葉があります。
頂点を登り詰めたものは下るほかない…というのです。イケイケドンドンで頂点を極めたものは…やがて落ちていくしかないことを忠告している言葉です。
  難しいのは、「どこが頂点なのか?」「いつが頂点だったか?」がなかなか分からないことなのです。

 快晴の青空が、いつまでも青空であり続けることはなく必ずいつか崩れ雨が降る。たくさんの社員を抱えて、業界一番の規模になり“栄華を極めた絶頂のとき”のその企業のどこかに…“衰退の兆し”が芽を出しているというのです。
  逆に言えば、土砂降り雨の日が何日続いていても、必ず晴れの日が来るということです。地球的規模の不況に翻弄されていても現状がいつまでも続くことはないということですが、いつになったら開けるのか気がかりでもありますが…。
「易経」の中で、登りつめて栄華を極めている現象や人々の姿を、天高く悠々と泳いでいる龍に例え“飛龍”と呼んでいます。
  そして、“飛龍”となって調子にのりすぎると、やがては“亢龍”になり、よほどのことがない限り飛龍には戻れなくなり、結果として悔やむことになるというのですから、大変なことです。
  業界のリーダーとなる人々が、規模の拡大や栄華を目指し、そして…それを誇っている姿に、嘆かわしささえ感じるのは私だけでしょうか。
  そういう人々は、気が付いたときには一気に衰退の道を辿ることになるという戒めだそうですから、お互いに十分に気をつけなければいけませんね。


  ●明るい兆しがあるのに気づかない人

 
 

 過去の私自身がそうであったように、事業の活力が崩れてくると、見えていなければいけないものが見えなくなってしまうことが多いものです。

 とくに、問題に押しつぶされそうになったり行き詰まったときにこそ、冷静になり周囲の人の言葉に耳を傾け、出来るだけ客観的に自分を見つめていくことによって次々と打つべき手が見つけて、新たな活路が開けていくものです。

 ところが、苦境にぶつかり絶望的になる人に限って、今までの自分の経験値だけで判断し、周囲の人からの言葉には耳を傾けず、何を提案されても「それはできない!だって…」「そんなコトしたことない!だって…」と、出来ない、したくない理由をツラツラと並べ立てて、何時間もかけて話し合いをしても結局は何の結論も出ないままになっています。

 ひどい場合は、自分の思い通りに行かないことを、それまでに関係してきた人や相談した相手に対して、自分を理解できない頼りにならないヤツとして、ミソクソに悪たれを言い逆恨みさえする人もいます。
  残念なことに、そんな人は、明るい兆しがあることを周囲の人が教えてくれているのだとは思えないのでしょうね。

 年末が近づくと、電車が「人身事故のため不通」になったということを聞くと、「もしや?!思い余った人か?」と、問題を解決できまま事務所を出て行った人のことを思い浮かべてしまいます。

 死ぬ勇気があったら…と、思ってしまうのは、自ら命を絶った人に対する伝えきれない何かがあったか、主訴を聴いてあげられなかったのかを悩み苦しむところです。

 先週、友人のご主人がご相談に来られて、お会いした翌日に同じようにして亡くなられました。その一報を耳にしたときから、筆舌には尽くしがたい動揺が今でも残っていて消えません。
  残されたご家族のことを思うと、さらに胸が痛みます。どうしてさしあげれば死なないで済んだのだろうか…。
  このことは逐語記録を起こして自省材料とすることが大切なのかも知れません。
  ご冥福をお祈りいたします。

 合掌。