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Vol.116
●嫌な言葉…『やられたらやり返す。倍返しだ!』
昨年、TVドラマ『半沢直樹』が大きな話題となった“決めゼリフ”がどうにも気になって仕方がない。
ドラマの中では、バブル期の大手銀行の組織内外からの圧力を受けて戦うという設定だった。 部下の失敗は上司の責任・・・・の真逆で「上司の失敗は部下の責任」という企業社会に起こりがちなことを話題としているものでしたが、ドラマ中、半沢が反撃するときのセリフとともに憎々しげな強烈な表情と重なり、私にとってはマイナスのイメージで印象深い。
毎年話題の「2013年の新語・流行語大賞」では、さすがに“やられたらやり返す”の部分は外され、『倍返し』の部分だけに切り離されて入賞となったようで、少し安心しました。
平均視聴率が30%という高水準の視聴率だけに、社会における影響力は決して少なくはないと思うと、暖かい温もりがあるとは言い難い“やられたらやり返す”・・・・の言葉は、他人を憎む…、他人を欺く…、他人を恨む…、などの復讐をイメージ
するような言葉としてしか感じられない、社会から消えてほしいとさえ感じていました。
戦国の世でもあるまいし、暴力団やギャング(?)の世界にいるわけでもないので“やられたらやり返す”はいかがなものかと…。
幸いにも、そこから切り出された『倍返し』というフレーズだけがメディア上でも繰り返し使われているようで、これからは『優しさ』のようなプラス思考の言葉や行動にこそ『倍返し』の言葉が添えられるようになってくれることを期待したいです。
憎しみ(マイナスパワー)を込めて「悪いのはアイツで、アイツのせいで…私は苦しんでいる。私は被害者だ。いつか復讐してやる…!」と言って指差した手を見ると、なんと中指、薬指、小指の3本の指は指差しした本人の方向を指していることに気がつきませんか。
つまり、よくよく考えてみると、そのようにして他人に憎しみを抱き続けると言うことは、なんと、3倍返しのマイナスパワーを自分自身に送っているということになります。
●『お陰様の心』の倍返しが出来るよう生きたい!
『ありがとう』そして『おかげさま』の言葉には何故か心を温かく包んでくれ、気持ちが穏やかになる不思議なパワーを感じます。
元・楽天イーグルス監督・野村克也(1935年生)氏が書かれた野村ノートの中に「おかげさまで」という、心に残る詩がありました。
『おかげさまで』
夏がくると冬がいいという、冬になると夏がいいという。
太ると痩(や)せたいという、痩せると太りたいという。
忙しいと閑(ひま)になりたいという、閑になると忙しいほうがいいという。
自分に都合のいい人は善い人だと誉め、自分に都合が悪くなると悪い人だと貶す。
借りた傘も雨があがれば邪魔になる。
金をもてば古びた女房が邪魔になる。
世帯をもてば親さえも邪魔になる。
衣食住は昔に比べりゃ天国だが、上を見て不平不満に明け暮れ、隣を見ては愚痴ばかり。
どうして自分を見つめないか、静かに考えてみるがいい。
75歳の年輪を重ねている名将だからこそ気づき語れる言葉が込められているように感じます。
この詩を読んでみると、人間って生き物は、いつも、いつも、無い物ねだりのワガママばかりを言っているようで、傲慢な生き物とさえ感じてしまいます。
人は一人では生きて行けない。この世に誕生する前から今の瞬間まで、親子、兄弟、恋人、友人、夫婦、医師、上司、部下、お客、師弟など、の関係で必ず誰かのお世話になったことは間違いありません。
自分を表舞台に立たせてくださったこと、辛い悩みを受け止めて解決してくれたこと、困窮する経済状態から救ってくれたこと、自分の欲求を満たしてくれたこと、生きるチャンスを与えてくれたこと・・・・など、縁ある人との出会いは『お陰様の縁』として心に留めてして生涯感謝の気持ちを持ち続けたいものです。
『温情の心』を弄ぶ行為は絶対にあってはなりません。
自分が戴いた『お陰様の心』を何倍かにして『社会に施そう!真心こめて惜しみなく』と“私利私欲”を捨て継続していく『積善の行為』が当たり前に循環していけば心豊かな人間社会となるでしょう。
●嫌な言葉…お笑い芸人のネタ『ゲスの極み!』
夜9時過ぎに家に帰り、その日の出来事をTVニュースと夕刊紙から情報を得て、ときどき観る娯楽番組はお笑い芸人が出演している番組ばかりで、景気も少しは回復してきたことだろうし、予算を掛けた番組が出来ないものかと感じているのは私だけではないだろうと思う。
とは言うものの、古びてきた我が右脳を活性化するためには、お笑い番組は適度な刺激剤となっていることは否めないことは認めるが、なぜこの芸人が受けているのか理解できないネタがある。
それが
『げすのきわみ〜』
で観客から笑いを取ろうとしているその番組内容に、イヤ〜な気分になってくるのは自分だけだろうか。
『げすのきわみ』
という言葉をさまざまな辞書で調べてみると、ある辞書で
『げす』
とは…
「この上なく下劣で品性が卑しいさま」
「人として最低であるさま」
「心根の卑しいこと。」
「身分が低い人。」
「これより低劣な者は他にいるまいというほど品位を欠いている様子」…とある。
『げす』
とは漢字では
『下衆』
とか
「下種」「下司」
書くようで、明らかに相手を上から目線で最大限に見下している表現の言葉としか言いようがない。
『下衆(げす)』は人物に対してだけ用いるのではなく、その人がした行為自体を対象として言うような場合もあるようですが、「下司、下種、下衆」の言葉は
「相手を蔑称するときのもので、普段はあまり使用してはならない言葉」
と注釈の付けられている辞書もありました。まさにその通りであると私も同感するところで、その言葉をTV画面を通して、多くの子供たちや青年が観ているのだから、『差別用語』として控えるべきではないかと思います。
例えば、会社や組織の中で、上の立場にある者がその部下に対し、その立場を利用して卑猥な行為をするなどは、「下衆と言われるような行為をした」という表現をするらしいが、『パワーハラスメント』という現代用語に置き換えて表現することの方が、やはりスマートで良いと思う。
●『ゲスの極み!』の反対語が見つからないのは?
何かよからぬ企みをしている時の顔や、非人道的な行為に喜んている表情や、生理的に不快に感じるような表情も『ゲス顔』と言うのだそうですが、やはり、一般社会においてはほとんど用いることはあり得ないと思います。
『ゲス
』という言葉には、相手を自分より下位の者として見下し、更に、この上なく険しい言葉と、憎さを込めた表情で相手に叩きつけるようにして用いる言葉と考えられますが、人間社会における極めて一方的な表現の言葉だと思います。
そこで、
『下衆の極み』
の反対語はどのような言葉なのかが思い当たらず、同様に辞書で調べてみましたが、これぞという言葉が見つかりません。
『ゲス』の反対の立場にあるはずのものが「人間社会には存在しない?」と言うわけはない筈だと思いますが、見つからないのはなぜでしょうか。
人を自分より下に観ている人ばかりではないはずですし、人類史上で世界の誰もが認める偉人や、自分が尊敬しているさまざまな世界で活躍をしている方々に対して
『上衆の極み』
という言葉は辞書にもなく、使ったことも聞いたこともありません。
下と言えば上、白と黒、表と裏、表と裏、寒と暖、光と影というように対峙する反対語が沢山あるように、「ゲス」に対する反対語がないのはなぜなのでしよう。
本来、人は「上」をめざして日々の生活の中で積善の行為をすることによって成長しているのだから、目指す方向の「上」を観ることより、「下」を観て、「下」との距離感をより大きくとる言葉によって、『自分自身が優位で心地良い』とでもいうことなのでしょうか。
人間とは、それほどまでに傲慢な生き物なのでしょうか。近いうちに、お寺の住職さんに会って教えていただきたいと思います。
まだまだ自分の修行の足りなさを痛感しつつ、平常心を整えたいと思います。