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Vol.22 不動産の共有持ち分と
            親族間の争い

     
  ●不動産の共有持ち分と親族間の争い
 
 

「何でここまでお互いに憎しみ合うのだろう…」と思う相談が立て続けにあると、相談を受けて話を聞いているだけであっても身体の奥深いところからドックドックと疲れが沸いてきて体中に広がっていくような気がしてきます。特に最近になって多くなってきたのが土地の共有持ち分における親族間の争いです。
 不動産を残した被相続人は、子孫に財産を残し少しでもゆとりある生活が出来るようにと思っていたのか…それとも全く無策だったのか…その時の被相続人の気持ちは知るよしもないが、不動産が「共有持分」であるが為にトラブルとなっている事例が多く…それは醜い見るに堪えない親族間の争いとなっているのです。
 
  特に被相続人が生前に無策であったとすると…遺族となった相続人が話し合いその不動産の分配割合と分配方法を決めていかなければなりません。最近の相続人の「相続権マインド」としては、法定相続人としての権利を主張することが多く、その場合は先ずは法定相続分割合によって共有持ち分の相続登記することになります。
  生前、被相続人の近くにいて親の面倒を見ていた親族であろうが…、親の面倒を放棄して遠くで好き勝手に生活していた親族であろうが…確かに法の下には平等な分配方法ではあるのですが果たしてそれでよいのでしょうか。
  被相続人が自分が亡くなって相続が発生した後に、親族間に争いが生じないようにきちんと考えてその対策を講じている場合は親族間のトラブルも少ないようです。予め不動産を処分して分配しやすいように現金化しておくとか、居宅以外の容易に売却して換価した現金を分配すればいいように不動産を整理している場合は殆どトラブルが起きていません。

 
     
  ●人格を変えてしまう共有持ち分の不動産  
 

 共有持ち分の土地の上に、複数の建物が存在するときの争いはどうにも収拾が付かない状態のまま、驚くことに10年間以上も親族間のトラブルが続いていたケースさえあるのです。
 
  両親がまだ元気であった頃、4人の子供達が結婚をする度に土地の一部に建物を建て、親の建てた建物の他に4棟の建物が建てられました。長男夫婦は両親の建てた家に同居し、やがて親が亡くなり相続が発生した。敷地内の建物に併せて分筆するとなると道路から玄関までの通路が間口狭小で再建築不可の画地が出来てしまうことになるので、そのまま法定相続の登記をして共有持ち分となったのだそうだ。
 
  そうしたのは昭和の時代のようでずいぶん昔のようでした。それから20年経過し、それぞれの家族の家庭内事情もさることながら、子供達の仲もあることを切っ掛けとして変わってきたそうです。仲のいい兄弟や険悪な関係の姉妹がでてくると、その建物には賃貸で他人を住まわせ自分たちは郊外へ引っ越してしまったり、相続発生前とはその状況も大きく異なってしまったのです。
  建物が老朽化したので立替をしたいと考えている家族や、建物を売却して現金を元に新規に事業をスタートさせたい家族やらで、無計画に建物を建てた土地の権利に対する考え方は区々になってしまいました。
  全部の土地を一括して売却するにもしても、親族間の調整が付かなくなってしまったのです。両親としては、まさかこんな事でも争いにまでなるとは考えてもいなかったことでしょう。親が元気で、親としての威光があるときは子供達も仲が良かったのでしょうが、狂気さえ感じるほど取り乱している家族がいたりすると裁判で決着しない限り収拾が付かないと思うほどです。

 
     
  ●心が疲れたときは月を仰ぐ  
   あっちの家族…こっちの家族…と繰り返し繰り返し親族間の争いを聴いていると、胸が締め付けられるように苦しい感覚が込み上げてくることがあります。頭の芯が痺れるような…締め付けられるような…辛く悲しくなってしまうことがあります。
 
  リスク・カウンセラーだけの対応ではとても解決できないこともあります。精神科の医師をご紹介して、心の調整をしていただいたうえで再度話し合いを進めるような場合もあります。
  でも、リスク・カウンセラーは挫けて放り出してはならないと自分に言い聞かせ、毎日のように月を仰ぐことにしています。欠かさず夜の散歩に出るのは…月のエネルギーを浴びに行くため…と云っても過言ではありません。月と会話したい…でも…時間が合わないと新月の頃に月と出会えないこともありますが、空が曇っているときでも必ず空を仰いで月を探します。月には不思議な力を与えてもらえるように感じるからなのです。「真如の月」だとか「心の月」などといいますが、どんな月でも私の疲れきった心が洗われるのです。争っている人たちにも是非見て欲しいといつもいつも思っているのですが…。
 
  「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」という歌がありますが、何処にいても…、誰にでも…見ることができる月は、これからも私の大きな支えとなってくれることだと信じています。